2026年の正月、重箱の呪縛が解ける――なぜ私たちは今、土井善晴の「無理しないおせち」に救われるのか
土井 善晴 おせちという言葉をめぐる空気感が、ここ数年で決定的な変化を遂げている。かつて百貨店の特設フロアを埋め尽くした金箔付きの豪華三段重や、年末の台所で主婦たちが徹夜同然で何十品目も仕込んだ狂騒。2026年を迎えた今、そうした「見栄の正月」に対して、多くの生活者がはっきりと疲弊の声を上げ始めた。箸がほとんど進まない甘すぎる煮豆や練り物、そして年末年始の家計に容赦なくのしかかる物価高。そんな息苦しさの只中で、料理研究家・土井善晴が長年飄々と説き続けてきた飾り気のない言葉が、乾いた喉を潤す一杯の白湯のように人々の胸に沁み渡っている。
師走の足音が近づくたび、SNSや街角の雑談で合言葉のように交わされる土井 善晴 おせちの流儀は、決して日本の伝統を投げ捨てる暴論ではない。むしろ逆だ。「正月なのだからこうあらねばならない」という世間の刷り込みや商業主義の圧力から家庭を解き放ち、家族が笑顔で湯気のある朝を迎えるための、きわめて現実的で慈悲深い提案なのだ。台所に立つ誰かを疲弊させてまで守る形式に、一体どれほどの価値があるのか。その問いが今、リアルな切実さをもって響いている。
「全部作らんでええ」――台所を縛り続けてきた“呪縛”の解体
重箱の隅をすべて埋め尽くさなければ年が越せない。そんな強迫観念が、長きにわたって日本の家庭、とりわけ女性たちの肩に重くのしかかってきた。数の子、黒豆、田作り、伊達巻、紅白なます、たたきごぼう、煮しめ――。手作りにこだわるあまり、暮れの大掃除と重なり合って心身をすり減らし、元日の朝には疲れ果てて寝込む。そんな光景を、土井善晴は真っ向から軽やかにいなす。「自分が本当に食べたいものだけ、一品か二品作ったらそれで十分ですよ」と。
この一言に、どれほど多くの人が救われてきたことか。土井のスタンスは一貫している。料理は誰かを苦しめるための義務ではない。家族の命をつなぎ、今日という日を無事に暮らすための営みだ。二十数種類の具材をすべて揃える必要などどこにもない。伝統とは博物館のガラスケースに飾る化石ではなく、生きている人間が心地よく受け継ぐ生活の知恵であるはずだ。無理をして形骸化したルールをなぞるより、機嫌のいい笑顔で台所に立つことのほうが、よほど尊い。「作らんでええ」という関西弁の響きは、単なる手抜き推奨ではなく、台所の主権を取り戻すための鮮やかな解放宣言だった。
高級重箱バブルの終焉と、物価高がもたらした生活実感
ここ数年のインフレの波は、年末の食卓事情を直撃した。かまぼこ一枚、数の子一腹の値段にため息をつく2026年の現実において、3万円、5万円という値札が並ぶ有名料亭の冷凍おせちを惰性で買い続けることに、多くの消費者が疑問を抱き始めている。きらびやかな重箱を開けた初日の高揚感は確かに心地よい。しかし、三が日を過ぎても冷蔵庫の片隅に残る乾いたエビや、惰性で消費される日持ち重視の濃い味付け。そこに残るのは、小さくない浪費感と胃の重さだ。
見栄のために大金を払う消費モデルは、急速に色褪せつつある。生活者が求めているのは、インスタグラムで見せびらかすための豪華絢爛なセットピースではなく、体にしっくりと馴染む滋味深い味わいだ。派手なパッケージビジネスに踊らされるのをやめ、等身大の暮らしに立ち返ろうとする空気。土井善晴の言葉がこれほど強い説得力を持つ背景には、過熱しすぎたギフト資本主義に対する生活者側の静かなストライキがある。
黒豆と雑煮、それだけでいい。土井流が解き明かす「ハレ」の本質
では、土井善晴が考える「真のおせち」とは何なのか。その答えは驚くほど削ぎ落とされている。丁寧に炊いた黒豆が一鉢、あるいは香ばしく炒った田作り。そして何より、熱々のだしを張った一杯の雑煮。極論を言えば、それだけで正月は完璧に成立するのだという。
雑煮こそが、日本の正月の中心点である。各家庭のルーツを宿した餅と、昆布や鰹節の澄んだうまみ、青菜が一筋。椀から立ちのぼる白い湯気を吸い込み、冷えた手を温めながらすする一口に、命の更新を感じる。土井が提唱する「一汁一菜」の哲学は、正月という特別なハレの日にもそのまま息づいている。あれこれと小鉢を並べ立てなくても、魂のこもった雑煮と好物のおかずがひとつあれば、年神様を迎える厳かな歓びは十分に満ち足りる。形式を削ぎ落とした先に現れるのは、食材と真摯に向き合う豊かな時間そのものだ。
「買ってもいい、残してもいい」手作りの罪悪感を脱ぎ捨てる作法
土井善晴の思想が現代人の心を掴んで離さない最大の理由は、一切の「純血主義」を振りかざさない懐の深さにある。手作りの崇高さを説く料理家は多いが、土井はコンビニのかまぼこや市販の伊達巻を重箱に詰めることを少しも否定しない。「しんどかったら買ってくればええ。綺麗なお皿に移し替えるだけで、立派なごちそうやないですか」と笑うのだ。
手作り至上主義がばら撒いてきた毒――「すべて手作りしない母親は失格」「出来合いを使うのは愛情不足」という見えない呪いを、彼はあっけらかんと無力化する。買ってきた黒豆を自分好みの器に盛り付ける。それだけでも立派な「料理」であり、もてなしの心である。手作りか既製品かという二項対立に陥る必要はない。自分が機嫌よくいられる落としどころを自分で決める。その自己決定権を肯定してくれるからこそ、人々は罪悪感という重荷を下ろすことができる。
冷たい作り置きから、温かい食卓へ――これからの日本の正月
そもそも、おせち料理が濃い味付けで冷たい保存食として発展したのは、正月三が日に女性を炊事から解放するため、あるいは火の神を休ませるためという生活の知恵だった。しかし現代の住宅には冷蔵庫があり、電子レンジがあり、年中無休の物流がある。寒風吹きすさぶ台所で何日も前に作られた冷え切ったごちそうを我慢して突っつく必然性は、もはやどこにも存在しない。
2026年、日本の正月は「温もり」を取り戻そうとしている。元日の昼に焼きたての魚を食べてもいい。夕暮れに家族で具だくさんの鍋を囲んだって罰は当たらない。大切なのは、日々の労苦をねぎらい、新しい巡りを共に喜ぶことだ。重箱という四角い枠組みに無理やり押し込められていた私たちの正月は、土井善晴という道標を得て、ようやく自由な呼吸を始めた。湯気の向こうにある素朴な笑顔こそが、どんな豪勢な錦糸卵よりも眩しい、新しい時代の豊かさなのだ。 (出典: 土井 善晴 おせち(Yahoo!ニュース))